少しずつ、また動き出したいとか思ったりしてます。
社会人になって数年、忙しさに追われてなかなか文を書くということに向き合う時間がなかったなーと思います。
ここ最近、仕事も比較的落ち着き、少しずつ余裕も出てきたので、また少しずつ日々思った雑感を書き続けられればなと思います。
決意表明ということでよろしくお願いします。
少しずつ、また動き出したいとか思ったりしてます。
社会人になって数年、忙しさに追われてなかなか文を書くということに向き合う時間がなかったなーと思います。
ここ最近、仕事も比較的落ち着き、少しずつ余裕も出てきたので、また少しずつ日々思った雑感を書き続けられればなと思います。
決意表明ということでよろしくお願いします。
2020年1/17に公開の「ジョジョ・ラビット」。
ヒトラーをイマジナリーフレンドに持つナチの少年と匿われたユダヤ人の少女。とてもキャッチーな舞台設定。そして監督は「マイティ・ソー/ラグナロク」で一躍その名を広めた監督であるタイカ・ワイティティ。
予告CMなどを見ても、どこかコミカルな雰囲気を感じさせるようなもので、ソーにコミカルな印象を与えるタイカらしい作風だと思いながら先日鑑賞してきた。
以下、作品の内容に触れながら感想を記していきたいと思う。くれぐれもネタバレには気を付けていただきたい。
作品を見終えて最初の感想は"キツい"映画だな、というものだった。別に作品が面白くないとかではない。逆に作品自体はかなり面白く見ることができたのだが、この映画の持つメッセージ性がかなり直球でかなりえぐられた感覚に襲われたためについ口に出てしまったのだ。
ナチによるユダヤ人への教育の歪み、最近の「仮面ライダーゼロワン」なんかではAIへのラーニングおよびその影響などが取り上げられているわけだがそれを思い出さずにはいられなかった。
10歳になったばかりのような子どもがユダヤ人に対して悪魔のような暴言を吐く。しかもこれを暴言と思っていない。純粋な悪意ほど恐ろしいものはない。そんなジョジョはユダヤ人の少女エルサの出会いをきっかけに周りの愛ある人たちとの触れ合いをきっかけにその世界を広げていくこととなる。
「ユダヤ人にはツノがある。」「ペニスの先端を切って耳に詰める。」今では簡単にありえないと言えるようなことが、この時代にはごく普通に浸透している。差別というものは得てして純粋さから始まるのではないか。もしかして私たちもそんな差別の教育の中で生きているのではないか、さあ考えさせられるような冒頭部とジョジョの造形であった。
中盤以降でユダヤ人少女、エルサに出会いジョジョのナチの部分がなりを潜め、10歳特有の子どもらしさが顔を出す。
ただ、ここからのやりとりが本当に心苦しい。当事者を目の当たりにしても一切緩むことのない純粋な悪意、エルサ役の女優の演技に思わずこちらとしても心が苦しくなる。"当たり前"として教育されるものはこうも簡単に他者への攻撃を許してしまうのか。
では、それを切り開くものとはいったいなんなのだろうか。
それもまた、子どもの持つ無垢さ、なのだと思う。
エルサに対して手紙を送る純粋な気持ち、戦争の結果を偽ってでも一緒にいたいと思う無垢な気持ち。その無垢さ、純粋さは我々の心を打ったのではないだろうか。
また周りに配置されているキャラクターたちも皆が愛に溢れている。
やはり母親のロージーや、キャプテンKこと、クレンツェンドルフ大尉は物語内の母性、父性を担うキャラクターとしてとてもよく描かれていたように思う。
また、ヨーキーも、ジョジョに対する写し鏡として機能していたと思う。ヨーキーの末路(?)としては、結局差別の目がユダヤ人からロシア人に移るというものなのだが、これがまた世の残酷さをよく映し出している。
結局、社会というものはそういうものなのだ。
ひとつ差別をなくそうとしてもその結果また、新たな差別が生まれているのではないだろうか。
映画全般を通してギャグが散りばめられており、映画館全体が笑いに包まれることも少なくなかったが、結局この映画の本質は社会の持つ、持っていた闇をかなりストレートに描いていたように思う。
私は同監督の「マイティ・ソー/ラグナロク」の色彩豊かな画面づくりが非常に印象深いのだが、今回は全般を通してどこか曇り空でどこか画面から重苦しい雰囲気が漂っていた。
笑いで終わらせてはいけない、そんなメッセージがかなり色濃く表れていたと思う。
私は戦争について、何か直接的に体験したわけではない。だからこそ、こうやってどこかで語られるべきなのではないか。何も知らないということの恐怖は知ることでしか克服できないのではないか。
最近では「ヒロアカ」のキャラクターの名前で戦時中のことが連想されるとして、名前が変更されていた。しかし、私としてはそれを契機に戦時中の悲劇を語り直していくべきなのではないかと思う。
真の恐怖は、戦争を知らない純粋さから生まれるのではないか。
そんなことを映画を見ながらぼんやりと考えていた…。
先日、卒業論文なるものを提出した。
自分が設定したテーマは映画を用いた授業提案であった訳だが、ここで自分の映画への素直な気持ちを整理しておきたいと思い、ブログとして残すことにした。
元々映画は「嫌いではなかった」程度のもので話題の作品や、好きなアニメなどの映画化があれば見に行く程度のものだったと思う。
記憶に残っている中で一番最初に見た映画は2004年公開の「Mr.インクレディブル」をレイトショーで見たのが初めてだったと思う。
そこからはクレヨンしんちゃんやドラえもんの映画作品などを中心に映画館に足を運び、中学校に入れば「TIGER&BUNNY」の劇場版作品や「けいおん!」の劇場版作品を友達と見に行ったのを覚えている。
自分の中で映画の価値観を変えたのは2015年公開の「アベンジャーズ /エイジ・オブ・ウルトロン」だった。
きっかけは幼馴染が誘ってくれたことだった。当時の自分はアベンジャーズ の知識に関してはそこまで詳しいわけではなく、「アイアンマン」と「アベンジャーズ」をテレビで見てなんとなくキャラクターの関係性について知っていたレベルのものだったと思う。
大迫力のアクションと共に繰り広げられる戦闘、そして「MCU」と呼ばれる映画内で連続していくストーリー、全てが新鮮だった。
その後家に帰って大興奮のままにMCU、ひいてはMARVELについて調べていたことを思い出す。
そこから自分の中で映画を見るジャンルが広がった。MCU作品を中心に洋画を見るようになり映画というものにのめり込むことになった。
高校生の頃は地元が田舎ということもあり映画を見る頻度は決して多くはなかった。
その頃はバイトも禁止されていたこともあり金銭的な面でも見れる映画は限られていた。
大学に入ってからは近くに映画館があったりバイトができるようになったこと。さらにはNetflixなどの映像配信サービスが利用可能になり生活と映画の距離感はぐっと縮まった。
自分の考える映画の最大の魅力ってなんだろう。卒論を書きながら何度も反芻した。
2時間で語られるストーリー性?でもそれは小説でも体験できるのではないか。様々な人と感想を交わし合うこと?それも映画じゃなくてもいい。
では、自分は映画の何に惹かれているんだろう。
答えは簡単に見つかるようなものではないだろう。
でもそれを打破するヒントもやはり映画を見た思い出の中にあった。
私が人生の中で何度も何度も繰り返して見た映画が2つある。
これらはその物語内で私の心を大きく揺さぶり感動を与えた。「サマーウォーズ」に至っては小説版も何度も読み返した。
やはり映画はその物語への没入感とその感情の揺さぶりが大きな魅力なのではないだろうか。この没入感は映画館でただただ無心で映画を見ることでしか得られるものではない。
また、本などとは違い、映画館は途中での視聴を止めることはなかなかしにくい。たとえそれが自分の感性とは合わない映画であったとしてもそこで得たあらゆる感情はそこでしか得られない貴重なものになるのだろう。
だからこそ私は今日も映画館に足を運ぶ。
その時にしか得られない感情を得るために。
この記事は以前Twitterで呟いたものを転載・一部変更したものになります。まだ、DVD・Blu-ray等出ておらず、物語の内容をネタバレ有りで語っておりますのでネタバレにはご注意ください。
この映画を見て一番最初に思ったのは「すごいもん見た。」この一言に尽きた。
スクリーンから流れる圧倒的カッコいい構図の連続。テンポ感といい、全てが小気味よく流れ思わず巻き込まれる。
最初の消火活動のシークエンスからも見て取れるクリエイターの熱量、それが途切れることなく最後まで続いていた、というのが見ているこちらも思わずノせられる要因の一つだったのではないだろうか。
とはいえ、肝心のストーリー、穴がないかと言われればそんなこともないだろう。急なSF展開には思わず待ったをかけたくなったし、正直私の理解力が足りないだけかもしれないが、最後のガロデリオンの件、本当にガロ必要?となってしまったのも事実だ。
ただそんな疑問は、それは先ほども述べたように映像から流れる圧倒的なエネルギーに押し流されてしまう。その迫力、幼稚とも言えるほど純粋なカッコいいの前にはそんな野暮な疑問など消火されてしまうのである。
ただ、これが一度気になりだしたら止まらないとなると、一気に冷めてしまう作品なのではないか、とも思う。
最後は本当に怒涛の勢いだっただけにそこで一度冷静になってしまった人への興奮を復活させるためのフックを持ってくることができなかったのも事実だろう。
ただ、いかにみんながこの熱量にノせられたのかは、応炎上映の熱気を見れば一目瞭然である。全員が製作陣の熱量にあてられてそこに思わず参加したくなる、まさしくお祭り映画そのものであろう。
一人で見た後は思わずみんなで見たくなる、みんなで技を叫んで童心に戻りたくなる、そんな作品だった。
この作品を鑑賞する前、TRIGGER作品では、グレンラガンを見ていたのだが、そのイズムはこの作品の随所に現れていただろう。
具体的なシーンなどはキリがないので控えるが、私の期待するTRIGGERらしさのようなものがそこにはあった。
作品の筋、それそのものは王道すぎるほど王道でありながら、それを圧倒的なかっこよさのこだわりの中で描くことでむしろ新鮮さすら感じるほどに清々しい作品になっていたと言えるのではないだろうか。
公開からはや6周目を数える本作品だが、まだまだこの勢いの炎は消えることはないだろう。
この記事は以前Twitterで呟いたものを転載したものになります。
正直な話、ピーターが親愛なる隣人から世界を守るスーパーヒーローになったのか、という問題は曖昧なのではないかと感じた。最後、戦いの場に臨んだのも世界の平和がどうこうと言うよりも、むしろ友人のためという動機の方が強く見えたし。ただ、ここで大事なのはトニーの遺志は(ここは敢えてこういう表記で)ピーターが世界を守るスーパーヒーローになってほしかったのかということだと思う。
個人的な見解だが、私は最後までトニーはピーターには親愛なる隣人でいて欲しかったのではないかと思う。というのも、この親愛なる隣人でいる、という決断はホームカミングでピーターが出した決断である。それをスタークは最大限に尊重しようとしたのではないか。だからこそ、ニックも連絡が取りにくかったのではないかと思う。(本人が連絡を無視していた部分もあったのだろうけど。)
今回の作品ではそんなトニーの持っていた抑止力がなくなった世界を強く打ち出していたと思う。今回のヴィランの動機だったり、ピーターとニックの接触然り。
そんな中で今回のピーターに迫られる決断はかくも過酷であり重い。ポストクレジットを見てもそうだが、世界を守る16歳に対して周りの大人たちはどうこの「子ども」を守っていくのか。学校ではイけてなくて、恋愛には奥手、ついついウェブでスイングしちゃうようなそんなピーターをどう世界は守ってくれるのか。今後にすごく期待と不安を覚える幕引きだった。
さて、最初の話題に話を戻すと、ピーターは結局、目の前にあるものを守るので精一杯でそんな世界を守るような覚悟はまだないような印象を受けた。でも私はそれでいいのだと思う。それこそ、親愛なる隣人であり、我らがスパイダーマンなのだと。そんな隣人でい続けることを、ピーターはそれこそ、「鉄の意志」で選んだのだ。世界がああだこうだ言おうが関係ない、俺は親愛なる隣人として目の前にあるものを守る。その姿はまるで周囲に何を言われようが自分の責務を遂行するトニーの姿そのものだったのではないだろうか。だからこそ、スーツを作るあの姿はトニーと重なって見えたし、誰もがハッピーのような表情になったのではないだろうか。 むしろ戦いが終わった後のハッピーのニックに対する対応は、そのトニーの遺志を汲んでいるようにみえた。
つまり、HCの頃と根幹の部分(目の前にあるものを守る)は変わってないのじゃないかなと。この姿勢は『アベンジャーズ インフィニティウォー』の時から現れていたように思う。目の前のドクター・ストレンジを救うために宇宙にまで飛び出してしまう姿は今思えばピーターのスタンスが端的に出ていたのでは描写に感じた。
実際問題、ピーターが自分自身で出した決断であればトニーは応援したし、観客の我々もそれを手に汗握りながら見守ろうではないか、そんなふうに思わされた。
それにしても、あの最後のクレジットシーンには度肝を抜かされた。
自らヒーローを名乗り、ヒーローとしての人生を始めたトニー、そして正体を明かされそのトニーの責任を担わされることとなったピーター、彼は今後どのような人生を歩むのだろうか、今後にも目が離せない。
これは作品が面白くなかったとかではなくて、満足感と同時に寂しさを感じ得ない作品で、面白い!!だけでは表現しきれない感情になったということだ。
このMCUは私にとって中学生から大学生にかけて友達とああだこうだ感想を話しながら見たものであり、まさに青春を共にする作品であった。その最中で離れ離れになってしまった友もいれば、新たに一緒に見るようになった友もいる。
このご時世、SNSでいつでも感想を共有できるので離れ離れになっても今でもやりとりしているのだが、それがなんだかとてつもなく寂しく感じてしまった。
あの頃顔をつき合わせて「キャプテンアメリカがかっこいい!」「いや、アイアンマンが!」「ホークアイが!」などと言っていたが、「エンドゲーム」で、このキャラクターたちのアベンジャーズ としての役目は文字通りエンドし、次の世代へと引き継がれた。
それは私たちも同様で、あの頃の子供のままではいられないのだ。上の世代からの継承、そしていつかくるであろう、次の世代への継承を感じざるを得なかった。
勿論作品としてのロスも要因の一つにもあると思う。"ブラック・ウィドウ"こと"ナターシャ"の死や全ての始まり、"アイアンマン"こと"トニー・スターク"の死。最後まで私たちのキャプテンであり続けた"スティーブ・ロジャース"の最後など、これからこのキャラクターたちの活躍が見られないと思うと、やはり心にポッカリ大きな穴が空いた気がしてしまう。
この作品で描かれたように、過去は決してなくならない。私が友達と語り合った10年も決してなくならない。しかしながらこうも強烈な終わりが突きつけられるとどうしても私もさらなる一歩を踏み出すことを強要されてるように感じてならないのだ。
とはいえ、このエンドゲームひたすらに没頭することのできる圧倒的であり究極の映画体験であったように思う。笑える場面では思わずクスッとなったし集結の場面では昂ぶって手に汗握った。最後の場面では例に漏れず声を上げて泣いた。数多くの作品を見たと誇れる自信はないが、ここまで感情が揺さぶられる映画に出会ったのは初めてだった。
MCUはこの10年間、素晴らしい作品を作り続けながら、この「エンドゲーム」を区切りとし、またこの10年間を基盤としながらまた新たな物語(サーガ)を紡ごうとしている。私にできることといえば、今いる新たな友と共に次の「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」を見る準備をするだけだ。
次の10年後はどんな友と語らっているのであろうか。こちらも非常に楽しみである。